『日本語で読むということ』(水村美苗)



水村は、繰り返し書いているように12歳のとき父親の都合で(いやいやながら、自分の意思でなく、というニュアンス)NYに渡り、以来周囲に日本語がない環境に育ったが、米国に馴染めず、古い日本語の本ばかりを読んでいた。

当然ながら、帰ってみれば、こはいかに。浦島太郎である。新し物好きの水村の母とは違い、水村姉妹は、旧いもの「失われたもの」ばかりに拘泥する。

「二人揃って「今」を呪うこと、どんな老女もかなわない」

本書の譬喩を使えば、帰国子女の眼に映った日本は、〈ヴェネツィアのサンマルコ広場が駐車場になった〉ようなものだったろう。伝統は形がなければ伝わらないのだ。

水村が英語で書く小説家にならなかったことを、日本の読者として感謝する。

余談だが、そんな水村だから、ずいぶん古風な女性になった。エッセイを読むと、男女性差の視点が多く、必要以上に女性の謙譲さが目立つ。「女だてらに」こんなものを書いて、とか。「生意気に見えないかと心配した」とか。「男らしさ」とか。水村さん、もうそんな時代ではありませんよ。


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